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1、伏見稲荷大社の創記と狐

( 稲荷大社の創記)
 奈良時代の書物[山城風土記」によると、大陸からの渡来人泰氏一族が山城地方に富み栄えていたが、族長の伊呂具いろぐが富貴におごり餅を的にみたてて弓を射た。すると餅は白鳥と化して稲荷山の頂上に飛び去り、白鳥の降りた所に稲が生えた。それから凶作が続き泰氏の家運が傾いたので、伊呂具の子孫は後悔し伊禰奈利いねなりの奇瑞を尊んで、伊奈利を創祀するとともに稲の生えたかたわらの木を家に移植して奉った。この伊奈利社いなりが和銅4年(711)稲荷となり以後代々泰氏が創祀することになったとある。この伝説は信じがたい事だが、時々こうした奇跡があるそうだ。昭和17年から19年まで3年間、続いて稲荷山の下ノ社蹟石積の上に稲が自生して成熟した事があると言う。(稲荷の信仰昭和26,11,23P33)また別の所伝では、奈良初期の 和銅期(711)2月初午はつうまの日、稲荷山の三峰みつがみねの杉の木に稲荷神が降ったので、伊呂具が山上に社殿を営んだのが稲荷大社のおこりで、毎年2月の初午の日に初午祭が 行なわれるのもその事にちなむと言うものである。

 泰氏は、大陸から先進的な土木技術を導入し大規模な開墾を行ない、既存の田の神信仰を稲荷信仰へと導き、蚕の飼育と絹織物の生産により商売繁盛の信仰を併せ朱の鳥居と共に五穀豊穣・商売繁盛・家内安全の神として広く庶民の信仰を集めた。それに秀吉が深い宗敬を寄せた事がはずみをつけた。現在でも東山三十六峰の最南端に位置する霊峰(233m)として、お山めぐりをする信者が後を断たない。昭和14年境内のお塚調査では、2,473基だったが昭和26年には約3万基だったと言う。正月三が日の初詣での人出は平成14年250万人と発表された。

(稲荷大社と狐)
 神社には、固有の動物が神の使いとして尊ばれている。例えば伊勢神宮の鶏・春日大社の鹿・日吉大社の猿・出雲大社の蛇・稲荷大社の狐である。狐が穀物霊と関係づけられている事例はフランス、ドイツ、インド、ペルシャに多くある。日本では、狐の生まれ変わりが大弁財天であると古昔説話に説かれている。一説によると稲荷の狐は、大陸から泰氏が連れてきたとも言う。中国の陰陽五行説によると世界は、陰陽ニ気から生じ万物は木火土金水の五気から生まれる。中国の農村では、五気のうち土気が最も尊ばれ狐はその土気を象徴する化身で霊狐である。これが朝鮮半島を経て泰氏と共に渡来したとする説だが、庶民の好む油あげと豆腐の一方を裂いて袋形にし、干瓢などを刻み込んだ酢飯を納めた稲荷鮨が出た時代などから疑問点が多く、平安時代の弘法大師の真言宗との結びつきに神道的狐より仏教との関係の深さをしのばさせる。

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