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3、本殿とその周辺

   桜門をくぐると正面に外拝殿がある。
祭事には奉納品をここで展示したり、稲荷信仰指導者及び
教師の研修、祝詞の指導などを行なっている。

外拝殿
外拝殿

軒先には十二個の鉄製釣灯篭が吊られている。

  この種のものでは美術史上まれに見る秀作で、
世界規模で評価されている作品である。

昭和三十六年、本殿の前に今の内拝殿が付加され
神輿を肩でかつぐ頃の宵宮は、飾られた五基の神輿が勢揃いしていた。

右手にある東丸神社には、受験者の参拝ガ多い。
祭神は、近世国学の筆頭にあげられる荷田春満である。

東丸神社
東丸神社

当社神官の次男として生れ江戸で学塾をかまえ
大名に古典を教授し弟子に加茂真淵・本居宣長がいた。

吉良上野介の個人教授をした関係で
赤穂浪士に吉良邸の図面を渡したと伝えられている。

 左手の奥にある休憩所には、信者が接待役を奉仕で行なっており、
棟は伸びてお守札・祈祷などの受付事務所になっている。

休憩所
休憩所

祈祷・お守札受付所
祈祷・お守札受付所

本殿に向かい右手の能舞台が、明治15年竣工の神楽殿である。
普段は奉納に使用され講員大祭には狂言が演じられる。

神楽殿
神楽殿

権殿左奥の大瓦葺き建物が社務所で、手前左の檜皮葺きは分室である。
社務所は主として祭典に先立ち宮司以下の祭員が祓いを受ける時に使う。

社務所
社務所

 内拝殿の奥が本殿になっている。

内拝殿
内拝殿

戦災等で幾度も焼失したが、明応3年(1494)に堂々たる大社殿が出来た。
戦国乱世に終止符を打ち天下を統一したのは豊臣秀吉で、
彼は天正17年(1589)生母大政所の大病快復を祈願し、
願いを叶えたら一万石を寄進すると申し出た。

本殿正面
本殿正面

本殿南側面
本殿南側面

すっかり本復すると当社の本格的修復を行ない、本殿・桜門・権殿などは
その折の建立と伝えられ、次ぎに元禄7年(1694)幕府の寄進による
造営が゙あり、文政5年(1822)、明治15年(1882)、大正2年(1913)、
昭和26年(1951)の造営を経て、昭和36年(1961)
本殿は明応造営当時の姿に復元され重要文化財に指定されている。

 本殿の修理などの祭、仮の本殿になるのが権殿である。

権殿
権殿

その左側の石段を登ると玉山稲荷社の前に出る。

玉山稲荷社
玉山稲荷社

.この社は御所の鎮守として稲荷社から勧請されたが、
東京遷都後に現地へ移された。

 右の石段を登ると奥宮がある。
本殿と同じく明応の造営で由緒ある社殿である。

奥宮
奥宮

奥宮の左に白狐社があるが、狐は稲荷神のお使いとされ
神の存在が目で確かめられないと同様に
霊力を発揮するに及んでは、目に映ってはならない。

白狐社
白狐社

白狐というのはそのような由来があり、
それぞれに阿古町アコマチは下の社、黒鳥クロオは中の社,
小薄オススキは上の社と名前がつけれ、更に神の一族として
「妙婦(ミョウブ)」と言う宮中女官職名が付与されている。

玉山稲荷社の右前方に両宮社など小さな四社が並ぶ。

玉山稲荷社右前方の両宮社など四社
玉山稲荷社右前方の両宮社など四社


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