2、特質のあるお召列車と関係記録

I脱線した御料車
 
 明治44年11月、明治天皇御統監最後の陸軍特別大演習が福岡県下で行われた時の事故である。

  天皇陛下は下関到着後海軍のランチで門司に御上陸、ただちに10日門司12時30分発のお召列車で西下される御予定であった。海峡渡航間際に御料車脱線の事故が発生したので、 陛下には臨時に駅長室でお待ち願った。このためお召列車は門司駅を1時間遅れて発車した。

 状況を知るため鉄道院公電をそのまま記すと、お召列車門司発車前準備のため陸線より下り本線に入換えの際、御料車の覆い風のため煽られポイント ( ドイツ式 ) の執柄に絡まれ、ボイントメン倒れポイント転換しお召列車の後部車両脱線、 復旧に約2時間を要し1時30分御発車なお車両、車輪等取調べたるに異状なかりし」 すなはち車を覆ったシ−トが風でポイントに巻き付き途中転換し脱線したものである。

 このため門司駅構内主任、清水政次郎氏 ( 33才 ) は、自分の直接的失策でないが武士道の精神にのっとり、鉄道院総裁・九管局長・門司駅長に対して申し訳のため下関市外、 一の宮トンネル内で轢死自殺をとげた。彼は同年9月5日に構内主任を拝命したばかりで上司と妻に次ぎのような遺書を, 電報依頼紙にしるしていた。

総裁・局長・各課長・駅長殿       清水政次郎
お召列車入換えの際事故に懸合い実に残念、其晩自殺する積もりでしたけれども責任者が判明せぬは駅長さんに済まぬと思い、大略責任者も分りしに依って幹部に申し訳のため自殺す。

妻のワキへ           政次郎
後は宜敷頼む。一口も知らせぬは許して下さい。

 その葬儀は13日17時、市内丸山町7丁目の自宅で出棺、丸山会葬場で数百名の参列のもとしめやかに行われた。 時の内務大臣兼鉄道院総裁原敬は、副総裁とともに西園寺首相に進退伺いを出した。原敬日記には事情が詳しく書いてあり、御料車は予備を随行、入換え作業のあり方の検討など真剣に考えている。

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