2、特質のあるお召列車と関係記録

(2)大正時代

 明治天皇と皇后の間には子供が出来ず、大正天皇は明治天皇の権典侍の1人である女性が明治12年8月31日出産した男児で、明宮嘉仁親王とよばれた。生まれながらの病弱で8歳のとき学習院 を3ケ月休学、15歳で中等学科1年終了後退学された。21歳でご結婚後も体調はすぐれず大正8年11月兵庫県・大阪府下の陸軍特別大演習を最後に公式の行幸はされなかった。
 裕仁皇太子は、立太子礼をすませ天皇の代わりに地方を行啓になった。

@明治天皇霊柩列車

  大正元年9月13日青山式場で大喪儀が行われた後、7両編成の霊柩列車は中央に御料車第13号を改造した霊柩車を連結し、14日2時青山仮停車場を発車新宿に入り、機関車を前後に付け替え品川に入り再び機関車を前後につけかえ、青山発と同じ向きの正位に戻しそのまま東海道線を下って行った。
9月14日の2時から19時までの東海道線上り列車は、全部霊柩列車通過停車場の一駅手前で臨時に構内待避線または反対側本線に待ち受け、御奉送の後再び運転を継続するように計画された。

 また東海道線各駅の構内要所や時計、その他金属で光沢のあるものは黒布で覆いもしくは鈍色に塗り替えられた。霊柩列車は品川2時42分着50分発京都16時53分着56分発桃山17時10分着で運転した。途中停車駅は、国府津・沼津・山北・静岡・浜松・豊橋・名古屋・大垣・米原・馬場 ( 膳所 )であった。

 第1供奉列車は8両編成で、14日2時15分青山臨時停車場発桃山16時40分着。第2供奉列車は同じ編成両数で、30分後に発車し桃山には17時35分着だった。

  当時時の新橋駅1日列車発着本数は、それぞれ47本乗降客約15,000人。上野駅は常磐線12本・奥州線8本・信越線7本の37本で、乗降客16,000人。新宿駅20本の9,000人。明治45年7月に開業した鶯谷駅は乗降人員600人で収入16円だったが、平成12年度は45,000人の500万円になっている。

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