2、特質のあるお召列車と関係記録
A供奉員が大勢で混乗の御乗用列車 明治時代初期の行幸は供奉員が非常に多い。この時代は衣食など総て持参しなければならず、交通手段は馬と船が多く、200人の供奉員は普通であった。ちなみに明治10年1月から7月まで関西地方の行幸は214名であった。 この時の御乗用列車は新橋8時15分発横濱10時着で、編成は上等8両、中等4両、下等5両で、一般の乗客が上等の一部と中等2両、下等4両を使用した。専用の御料車をご利用になったのは、関西地区行幸中の京都・神戸間開通式当日の2月5日である。 明治9年7月21日奥羽地方を御巡幸になり、還幸の際も横濱9時30分発、新橋10時30分着の一般列車に混乗されている。現在のところ 「お召列車運転及び警護基準規程」 第3条により混乗の場合は、お召列車と言わない事になっているので、当時は御乗用列車の運転が多かったことになる。 この頃は馬車の事故が多く、列車の事故は無かったので安全なものとされていた。明治7年10月11日、新橋駅でポイント故障のため機関車と貨車1両が脱線転覆したが死傷者はなかった。他方馬車では、明治6年11月7日皇太后、皇后両陛下がご同乗で浜離宮へ行啓の途中、麻布霊南坂中途で深さ5
メ−トル、幅1.5メ−トルの溝に転落、幸い両陛下は御無事であったが馭者は足を折り白馬一頭即死、他の一頭は負傷した事故があった。接触事故などは多かったようである。
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